pp響く音

音楽とか自分の経験したこと

自分に期待をする(少なくとも今は)

 期待をするから落とされるわけだ。何気ないツイートが何かの拍子でバズらないのかなだとか、ちょっとそこの角で素敵な人と出会わないかな、だとか。そうしてすり減っていくのだ。SNSには疲れ、日常生活には疲れ、家で疲れ、激しい太陽光でバテる。

 

 当然の結果、自分でもわかってるはずだ。自己評価は正しく下せているはずなのだ。寧ろ辛めにつけている(少なくとも自分では)。ただ受け入れる事とは違う。受け入れるのが難しい。というか不可能なんじゃないかと思わされる。全て自分のあるがままを受け入れるほどの器が私にはない。全ては自身の期待からきている。

 

 なら自分に求める行為をしなければいいのではないか。そういう考えに至るのはごく自然である。そのような努力をしている時期もあった。ただあるがままを見つめる。悟ったんじゃないかなんてことすら思う。達観したと真に思ってる。

 

 もちろんそのスタンスは長く続いて2日である。結局切に切望していたのだ。煩悩は消えない。護摩行を行っていない1人の戯言が続くはずがない。むしろそれが続くと思っている時点で自分に期待している。矛盾を孕んでいる時点でお察しである。

 

 そうして気づく。期待なんて消せない。ならそれを受け入れていくしかない。傷つくし辛いし苦しいけどしょうがない。そうするしかないわけだ。安い自己啓発本のような考えに落ち着く。不思議と心は楽になる。今の自分は文字通り藁でもつかむ。それも、沈むと分かっていても、である。

 

 さあやるぞ。

明日、街へ出よう。明日、髪を切ろう。


Wool & The Pants / Bottom of Tokyo

 

 

 これも長くて2日間だ。

 

 残念ながらこの考えは自分の都合がよいだけなのも知っている。やはり知っていることと受け入れることは別なのだ。そうして2日後には自身への飢えを克服しようとする。進んでいない。壊れている方位磁針は正しい方角を示さない。ぐるぐると回るだけである。確固たる羅針盤はまだ、見つからない。

Rei Harakamiに思いを乗せて

 

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https://images.app.goo.gl/Jdx6NVKoPKGdggZs6

 早熟な才能が早死しがちである。シューベルト、ジミヘン、カートコバーン、lil peep、アベフトシNujabes、Avicii、Juice WRLDとジャンル問わずだ。

 

 そして、レイハラカミは40の歳に亡くなった。  


rei harakami - robe @ TAICOCLUB '08

 

 一瞬で分かる。彼自身の音が直ぐに流れる。

 

 よく透明感のある音楽、などと形容しがちである。すべての音源が逆再生であるような出所の掴めない音、深いリバーヴ、音階なのかどうか分からないメロディ。

 

 否、こんなにも実態に触れれる音楽がそうはない。先ほど述べた全ての要素、全ての音が邪魔のしない干渉の仕方をしている。音の配列と言った意味でもあるし、これらが相乗的に一つの作品に加わっているでもある。

 曖昧みが残るこれらの音には電子音とはかけ離れていそうな温もりを感じる。

  私自身彼を知ったのはこの世を去ってからであるために、インタビューや録音されたラジオの声などしか聴けない。

 

 事実として述べる。これらの作品たちがこれからアップデートされていくこともなく、新たな作品が生まれることもない。これは悲しいことだ。残った作品はその人自身である。その人が形づいたものがやがてその人そのものを表すとは面白い。

 

 2011年7月27日、この日に彼は世を去った。今日聞く彼の音楽はいつもと少し違う気がする。私はこれからも必ず聞き続けるであろう。

 

 

 

 

坂本慎太郎(Sakamoto Shintaro) 砂のようにまとわりつく

 バンドを解散したあと、ソロプロジェクトをする場合前のバンドに似通るか全く別なことする、なんてことが多い。

 ゆらゆら帝国を解散した坂本慎太郎もソロを始めた訳だがゆらゆら帝国の続きをやっているとも全く違うことをやっているともいえる。

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https://images.app.goo.gl/Qi9e86WToJhHMYuA9

 

軽やか、スカスカ 


君はそう決めた ( You Just Decided ) / 坂本慎太郎 ( zelone records official )

 明らかにゆら帝のときより歪みの量が減っている。この曲はソロになって初めてリリースした曲になる。MVのアニメーションは坂本自身が一枚一枚手書きで書いている。

 ゆらゆら帝国最後のアルバム”空洞です”の時もそうだったがスカスカである。がもっと言うとバンドの感が薄くなっている。バンド感が薄くなる其れすなわち坂本の成分がより濃厚になっていることだ。実際ベースなども自身で弾いている。自分でやるには限界がある。その限界や制約がよりアイデアを、曲としての響きを加速させる。

nirnirnir.hatenablog.com

  軽やかな聞き心地が通った後に残るのは爽快感ではない。通った跡がぽっかり空くような虚無を与えてくれる。MVもとても秀逸だ。

パーカッション(コンガ等)の多用


死者より(From The Dead) / 坂本慎太郎(zelone records official)

 コンガとタンバリンがよく目立つ。コンガには一部深いリバーヴ処理がされていて全体のカラっとした雰囲気との対比が、ただただ聞き流す耳障りの良い音楽にさせていない。そのどっちつかずが生きている、死んでいる、その狭間である。

 膝がぐねんと逆さに曲がるような奇妙さと肉体に訴えるリズムだ。実は妖怪だったと言われてもそこまでは驚けない。

 

 ありのまま、奇怪な明るさ


坂本慎太郎 - あなたもロボットになれる

 果たしてこんなに悲観して直接的に揶揄することがあっただろうか。中々にストレートなこの曲はとても歌詞がオブラートに包まれていない。剥き出しの歌詞と嫌というほどの明るさがより無常さ、諦めにも近い感覚がある。明るい曲調なのに気持ちは全く上がらない。それ故に来ている我々は不安や虚無から解放されてはいなく、ロボットにはなれていない何よりの証拠だろう。


ゆらゆら帝国(Yura Yura Teikoku) - ロボットでした(It Was a Robot) (Live at 日比谷野外音楽堂)

 ロボットと言ったらゆらゆら帝国"Sweet Spot"からの一曲”ロボットでした”を思い出す。先ほどの一曲より内的ではあるが明らかに破壊的、エネルギーを感じる。バンドである。現在はよりニヒリズムに寄っている。内側内側に力が作用している。

 

 サウンドとしてはゆらゆら帝国の延長線を行っている。がその力のベクトルが内側へ、そして不偏的になっている。とても面白い。ジミヘンに影響を受けたファズギターは鳴りを潜めより深い、民族的に変化する。表現方法が変わっても坂本慎太郎という人は正に生きる音楽家表現者であるのだ。その部分は変わらない。

 

 

 

 

 

illiomote スマイルとこれから

 この音楽はハッピーに聞いてもいい。自由は彼女らの手の中にある。

アンバランス、ポップ志向

幼馴染であったYOCO(Vo,Gt)とMAIYA(Gt,Sampl)の2人による池袋出身のハイパーパフォーマンスユニット、illiomote。

BIOGRAPHY | illiomote

  ハイパーパフォーマンスユニット、若干のダサさがある(本人らで決めたのかは分からないが)。このままだとよく分からないので音楽を聞いてみる。


illiomote「What is ??」

 ギターのフレーズや音色は80sのようだ。最近だとThe 1975などもそのアプローチをしている。たぶんリバイバルしているバンド、またそのままオリジナルのバンド両方から影響を受けているのだろう。そしてサンプラーでつぶれたようなドラムも含めてDIY感、着飾らない感じ。トゲトゲしていないこういう音楽を聞いていたくなる。

 


Sundayyyy

 四つ打ちで多分キーも同じなために一瞬"Bad Guy"を想起するかもしない。がそれよりももっとカジュアルで、ロックを基軸にしていると感じた。むしろあえて同じ土俵で自分たちらしさを出そうとしているような反骨さすら覚える。

 これはアーティストプレイリストとして公開しているものだ。the 1975もやはり入っている。好きなのだろう。そしてWoozeやbeabadoobeeといったインディーロックが入っている。個人的にはGrimesがとても合点がいった。言われてみると電子音と歌の絡め方などに共通点が見いだせるからだ。

 打ち込みが主であるし、インディーロックが基盤である。ヒップホップのようなリリックも使っている。でも彼女らの音楽は総じてポップスである。ロックでも、ヒップホップにも形容させない。あくまで方法であって出口はポップさを意識的にしている。

内に秘めているネガティヴなエネルギーもポジティヴなエネルギーも人生を肉付けする要素なので、ハッピーは全部をひっくるめた自分のすべてだと思います。 

illiomote──全てをハッピーに昇華する、コンセプチュアルな宅録ポップ - OTOTOY

 

 決してただ笑みを浮かべるわけでない。反抗しながらも笑顔を作る。ある意味で最も反骨心があるかも知れない。

何物でもない自分は二回死ぬ

 何者ではないと気づいたとはいつだろうか。遅かれ早かれ気づいていく。レイアレンにも、カートコバーンにも、ホドロフスキーにも、岡本太郎にもなれない。なれない。

 初めは見ないようにしていた。60億分の1であるのだと疑いはなかった。それは間違っていた。ありきたりな人間であった。何者になるための努力も覚悟も欠落している中で当たり前の道筋。苦悩もない。ゆっくりと死ぬほかにない。

 何より、自分を傍観者として受け入れつつある。移り行くものを見て感じるのみだ。そこには残らない。ある段階にまで進むともう戻れもしないだろう。


Aphex Twin - Fingerbib

 その時ある意味で死ぬのだろう、ゆっくりとしたありきたりな死である。60億分の1より那由他ほど存在する死。物理的にまだ私は死んだことがないが、おそらく自分が自分の形を得れなくなることとして言うならば同義だ。

 当たり前だ。私は乳児であった。覚悟がない。土俵にも立っていないのだ。

 そしてもっと言うならば必死で多用な表現を使おう、何か知的に上手く自分を脚色している。この文を書いているのにも、だ。全くの無駄、無用、不適。寧ろ逆に作用している。哀れな文章、考えだ。微笑ましいのと寒々しいのは漸近線のように決して交わらない。

 いつか消えゆくこの自分を書かないと上手く死なないからこそここに供養する。嘘だ。まだ何か夢見ている。すぐにはできないだろう。同世代の成功してる人を見て嫉妬の渦に落ちる。成功の姿容しか見れていない。私は甘ちゃん、ステージにいない。

 夜は眠れない。でも何とか寝た後の朝私はただ腹をすかしている。ヨーグルトを食べる。昨日まで、今日の今まで思っていたことはぼやけていく。蛇腹のように行っては戻りを繰り返す。残るのは折り目のみだ。

 

 そしてまた数年が経った後にこの文を見て、恥ずかしさでもう一度死ぬるのだ。そしてひっそりとこの文は見られずに埋もれていく。そうすることで近づく。

 

 ここに私自身で2回殺すのだ

静かに踊る Baths

 お風呂に入って後悔した人はいない。考え事もリラックスもできる。ちなみに私は踊るときもある。落ち着きが存在する。音楽でも疑似体験できる。Bathsを聞けばいい。

(今年出したコンピレーションのアルバム。最新作である)

消極的な肯定

 BathsはLA在住のアーティスト、ウィル・ウィーゼンフェルドのソロプロジェクトである。1989年出身だ。Geoticとの名義でもリリースしておりBathsの方がよりアクティブな感じがする。あくまで感じだ。どちらも聞けばいい。

 Ghostly Internationalというレーベルに所属している。エレクトロニカ系統が多く所属している。Bathsも漏れずエレクトロニカの様相がある。

 エレクトロニカと聞くだけである程度どのような音楽かが想像がついてしまう。一つ一つにリヴァーブやディレイが掛かり、高低差を感じる音に囲まれている。もちろんBathsもその特徴が当てはまる。

 アーティストの特徴はその中でどのように音楽を解釈、表現するかに依存してくる。Bathsの場合、エレクトロニカとのジャンルを楽観的な解釈で調理していると感じる。

 


Baths - "Out" (OFFICIAL VIDEO)

 

 三枚目のアルバム、"Romaplasm"からの一曲である。音単体を聞くとエレクトロニカだが全体的に”陽”っぽさがある。限りなく陰に近い陽だ。おしとやかに踊る。静かながらエネルギッシュである。エレクトロニカの耳にやさしい音でゆっくりと踊れる。

 踊りにはいろいろある。頭をガンガン振ることもそうだし、サビで盛り上がるものもそう(所謂EDMと呼ばれるものだ)。それは外部的に見えるものだ。別に踊りとは体を激しく揺らすことだけじゃない。揺らぐのも踊りと言っても差し支えない。


Baths - Lovely Bloodflow

 

 1stアルバムからの曲だ。暗い感じもするが体の芯から動ける。大きくは動かないかもしれないがかすかにでも揺れる。立派なダンスだ。誰に強要されたわけでもない。好きにすればいい。消極的な肯定。聞こえは悪いかもしれないがその形容が合うと思う。 

 いつも元気にふるまっていて疲れている人も、元々からそんなに声が大きくない人も聞いてほしい。電子音が包んでくれる。温度のない音楽を体温で温めよう。

 

音楽遍歴から自分の人生を振り返る

 確実に自分の好きなことは何かと聞かれると”音楽”と言える。音楽はすそ野が広い。老若男女問わず音楽に対して様々なアプローチをしている。それは単にジャンルが多い事だけではなく歌詞を聞く人、音質を聞く人、音像を聞く人、人柄で聞く人、その接し方、楽しみ方も様々である。

 自分は気質が飽き性なためにそのような受け口の広い”音楽”というものに本当にはまった。この機にどのような遍歴を辿ってきたかここにまとめていく。自分語りである。ただ、ブログとはそういうものでいいらしい。その性質を今ここに利用する。

 

~12歳

 音楽に対して何にも疑いのない頃であった。もっぱら外で遊ぶ。バスケットをしたり

空手をしたり水泳をしていた。意識的にこれを聞いていたなどはない。が思い出すとGreeeenだとかナルトや鋼の錬金術師の曲を聞いていた。今でも聞くと歌える。


GReeeeN - 刹那


スキマスイッチ / ゴールデンタイムラバー:SUKIMASWITCH / GOLDEN TIME RUBBER

 スキマスイッチのこの曲を久しぶりに聞いたがかっこいい。

 また親の影響からか家ではサザンとBon jobiとQueenが流れていた。特に音楽に何も思いはなかった。先ほど音楽に対して疑いのない、と書いたがこれからの未来に対しても疑っていなかった。そこには積極性も消極性でもなくただ今日を暮らしていた。ある意味で充実をしていたのかもしれない。

 

聞いていたアーティスト

ファンキーモンキーベイビーズGreeeenYUIサザンオールスターズQueen、Bon jobi、ナルトのop,edテーマ、等々

 

12歳~15歳

 中学に入ると部活が忙しすぎてそれ以外には基本手が回らなかった。その中で家に合ったBump Of Chickenにドはまりした。本当にそれのみしか聞いていなかった。


BUMP OF CHICKEN「Stage of the ground」

 Bump以外は何も聞いていなかった。CDに擦り切れるという概念はないが、頭がはち切れるほどに聞いた。一時期はあまり聞かなくなってしまったが、今ではたまに聞いている。カラオケでBumpの曲は歌いまくる。

 

 ただ15歳も終わりのころ一日の間に付き合っていた子に振られ、第一希望の高校にも落ちた。今思えば人生のフックというか、階段の一段階なのだがその時は落ち込んだ。悲しい事だがこんなありきたりなことが自分の起点になったと後で考える。

 些細である。そういうものだ。激烈なドラマは存在しない。小さなことに心を動く。小さなことと客観的に思えても主観でしか捉えられないからだ。2つの比率は100:0にはならない。その時は主観で生きていただけである。

聞いていたアーティスト

Bump Of Chicken、Radwinps、Kana-boon、Nothing's Carved In Stone、など

 

15歳~17歳

 先ほどの小さいセンセーショナルな出来事のあと何故か趣味を探していた。音楽を聞くこともその一環であり、名前のカッコよさからPeople In The BoxThe Band Apartを聞き始めた。タワーレコードに行ってドキドキしながら初めて買ったCDはpeopleの"Family Record"だった。


People In The Box 旧市街

 当時の3000円はものすごく高かった。別に新譜だったわけではないがなんとなくそれが欲しかったからだ。とんでもないものに手を出し始めたという予感はあったがもう戻れなくなっていた。先に進むというよりかは来た道が分からなくなっていた。そんなある時に音が見た。衝撃だった。そのアーティストはToeである。


[HQ] toe - 孤独の発明 ( Kodoku No Hatsumei)

 この曲を聞いて今までの自身n概念の薄さに気づいた。クリエイティブさにはっきりと触れた。声がない分より洗練されていると感じた。周りの人でToeを聞いている人は誰もいなかった。それがより自分だけの世界、宝物に出会えた気がした。

nirnirnir.hatenablog.com

  このブログでまず初めにToeについて書いた。書かなければならなかったのだ。

 それからポストロック、マスロックをより聞き始めた。LiteやNuitoSigur Ros、American football、regaMogwai、TTNG、Delta Sleep、Tortoiseなどを聞いた。今思うとMonoやEnvyといったハードコアよりのものはあまり聞いていなかった。そしてインターネットの検索履歴にはポストロック、マスロックで埋め尽くされた。

 Corneliusと出会ったのもこの時期だ。その頃は音の綺麗さのみにフォーカスして音楽を聞いていた。その中で"Point"というアルバムは聞いたとき脳天と耳が一つになった。


CORNELIUS - ANOTHER VIEW POINT (2008 LIVE)

 音像の綺麗さ、不思議さからRei HarakamiやSerphといったエレクトロニカも少しずつ聞き始めた。掘り下げるのは大学に入ってからになる。

 聞いてきた音楽から分かるようにその頃は全く人の声や歌詞といったもの興味がなかった。むしろ邪魔だと思っていたくらいである。使っていたiPodにはインストばかりが占めていった。あれだけ好きだったBumpは削除した。悪いとがり方をしていった。今思うと何と虚しい、視野の狭い大馬鹿者である。そこに気づくのはもう少し後になる。

 

 まったく視野の狭い人間であった。他の人が好きなものには必ずそこには理由があるわけで、その事を知ろうともできなかった。恥が多いものだ。では今は完璧に理解しているかと問うてみても否である。恥が多いのは別に昔のことだけじゃない。今も恥を上塗りしている。ただ自覚しているかいないかとは大きな違いであるとも思っている。成長と呼んで差支えないと信じている。

 

 ナンバーガールにある夏出会った。その時から何故かナンバーガールは聞き続けていた。刺さった。事故的にだ。17歳になる少し前だった。


Number Girl - YOUNG GIRL SEVENTEEN SEXUALLY KNOWING (Live at SHIBUYA ROCKTRANSFORMED)

 この頃からやっと視野が広がった気がする。ロックが何かはいまだにわからないが好きであることに気づいた。そして大学に入る。

聞いていたアーティスト

Toe ,People In The Box ,The Sea And Cake ,Nuito ,Lite ,Cornelius ,TTNG ,The Band Apart , Number Girl ,Tricot ,Radiohead ,Aoki Takamasa ,rei harakami 等々

 

18歳~

 大学の軽音に入った。ロックがしたかったからだ。高校生の時には軽音楽部に入っていなかったので期待していった。が話があまり会う人がいなく、期待が大きすぎたことにようやく気付くのと同時に、自分がある種の音楽オタクであることにようやく気付いた。それを言われたときに腑に落ちた。話が合わない訳だ。感じていた疎外感の意味を理解してとても楽になった。


The Cribs - Mirror Kissers

 そしてこのグループの中にもやはり自分のような人がいて仲良くなった。いい音楽をシェアするようになった。ある先輩からは様々なロックを聞かせてくれた。さすがにアクモンやオアシスは知っていたが、そこから先の色々なジャンル、サイケ、ガレージ、UKその他もろもろを聞いた。他の友達からはいいビートメイカーやマイナーすぎるバンドを教えてもらった。この出会いは見る景色を広げられた気がする。

 またエレクトロミュージックも少しずつ聞くようになった。Aphex TwinFlying Lotusといった有名どころからどんどんいろいろ自分の好みを探していった。

    ここで聞いているアーティストを書くのは割愛する。まだまだ変わってゆくだろうからだ。

 

 ざっと振り返ってみた。羅列すると聞いている音楽が変化しているのはもちろんのことその背景にある考え方も変わってきているのだと月並みな感想を抱いた。

 そしてこれは途中に過ぎない。今も変わり続けている。数年後これを見て全く違う趣味になっていたい。未来は僕らの手の中だ。