pp響く音

音楽とか自分の経験したこと

バラバラにはならない社会

 いっそ全て壊れたらいいかもしれない。不平等とされる制度を、金が金を生む構造を、未来のない我々を、短絡的な思考しかできない自分も、忘れる事だけが特技のあいつも、区切りなく全てを。

 でも決して全部なくなるハルマゲドンなんて起きない。

 世の中はそんなに脆くないのだ。何かがなくなったら変わりのものが生まれるわけである。利権は存在し続ける。ニヒリズムを気取る自身の心は中途半端に残る。ありきたりの思考は止まらない。


 

 万が一全てが破壊されたときは皆で笑おう。その時にはおそらくこんな駄文は存在していないだろうから。

 



人間は地層構造である

 コーネリアスの話、と書くだけで何を指しているのか分かる2021年。話題は嵐のごとく波及した。去った跡にはあれだけ話題になっていたにもかかわらず目は向けられにくい。また、小山田氏は実際報道にあるような劇烈非道ではないのではないか、との話が今になって出ている。真実はまだ分からない。

 こうして小山田氏を擁護する人、強烈に批判する人、彼の音楽を聞き続ける人、小山田なんて昔の話で興味は当にない人。一人に対して様々な評価がある。人間には様々な側面があるし見方がある。道徳の教科書の初めに載っていそうな初等な考えを持った。

 

nirnirnir.hatenablog.com

 

 その中でも小山田氏の音楽はクソである、だとかその行為を批難するといったレベルを超えた、下劣な言葉を浴びせるような人も出てきた。私はそれに対して嫌悪感、もっと言うとその人たちに対しての怒りや悲しみが湧いていた。

 自分がコーネリアスの音楽をこよなく愛しているためどうしてもバイアスが入ってしまうのは分かっている。だがどうしてもそう思ってしまうのだ。沸々しながら罵詈雑言を言っている人のSNSアカウントを見る。好きな食べ物があり、信条があって、趣味があって、家族がいて、一人の人間のアイコンがBio欄と共に存在した。

 ふと思った。我々の小山田氏に対しての感情や印象が様々である。と同時にその感情もむけるその人も様々な側面がある。我々は地層のように様々な人格が重なり合って集団を形成している。見えている部分は一つの"地質"であり"構造"ではないのだ。その理解の先に構造が見えて地層全体の把握に繋がるはずだ。

 

 要は他人の立場になっても考えてみよう、とかいう平凡なことであるのだが。ただ、要はでは何となく取りこぼしてしまうと思い"地層"を例えに出してみた。

 違う視点を持って考えていきたい。Pointを聞きながら。

 

 

 

 

やりがい搾取だ、なんて言えない

 保育園で今年から働き始めた後輩と食事をした。近況報告や最近の調子といった当たり障りのない会話が続く中で話題の比重は仕事の話が多くなる。

 様々大変らしい。子供と一緒に食べる給食すらおちおちゆっくり食べれないと嘆いていた。彼女の上司は早くご飯を食べすぎて胃の炎症で病院に行ったそうだ。命を扱うわけで、これは大変な仕事であると私は思った。

 でも本当に楽しい仕事と彼女は言った。子供たちの笑顔を見れば人間関係の大変さや激務、そういったものを忘れるほどの喜びであるらしい。

 とてもうらやましかった。私はこれからの人生で見つけられる気がしないからだ。

 1時間ほどで食事は終わった。冗談めかして私は「今日は奢ってくれ」と言った。彼女は「無理ですよー」と明るく言った。だって給料低いんで、と付け加えながら。

 そうなんだ、とぼんやり言うと彼女は初任給を教えてくれた。学生でバイトを頑張った方がもしかしたら多く稼げるのではないか、と思う金額だった。そしてその給料が急激に上がる見込みはないらしい。

 

 やりがいがあるからいいよね、楽しいんだから。自分のしたいことを仕事にしてるんだからよかったね。

 もっと稼げるような職種に就いた方がいいよ。そんなに働いてるんだったらもっともらえるはずだし、見合ってないよ。

 

 どちらの言葉も浮かんだが、私はなにも言えなかった。やりがいだけでは飯は食えない、が金が稼げるだけでは料理の味は味わえない。どちらかを選ばないといけない現状はあまりにも厳しい。そんな漠たる言葉をかけることだけだった。現状維持でのみものを言う何ともずるい人間の帰り道は早かった。

 

 

 

 

 

少しだけ、浮き落ちる Wool & The Pants

 毎日をラブコメの主人公のように生きているだろうか。若しくは年中ゴッホのように耳をそぎ落としたくなるほど絶望しているか。

 

 そんな極端に振り切っている人は少ない。時々は振り切れることはあるだろう。でも基本はぬるい温度で過ごしているのだと思う。Wool & The Pantsは両極端ではない。シーソーがちょうど浮いて足が離れているようなバランスのアーティストである。

 

soundcloud.com

大げさなものは嫌いなんですよ。過剰にドラマチックに演出するのも嫌いだし、過剰に壊滅的に絶望的な歌とかも苦手で。自分の生活に近い淡々とした感じというか。

http://www.ele-king.net/interviews/007665/

 Wool & The Pantsは東京を拠点にする3人組である。坂本慎太郎が2019年のベストディスクの一枚に取り上げている。

 

 最小で動いている。音数が少ないという部分はもちろんであるが、音域すらもギリギリをいっている。周波数を削るフィルターが掛かっているよう。スカスカであるのだがこれが陰鬱さを引き立てててよい。機構は少ない部品であるほどに洗練されるのだ。

 やかましい音楽を想像してほしい。其れの150度ほど背を向けた所に存在する。

 

 かっこいいのだが決めすぎていない。耳に多くの音が流れないことはこんなにも清々しいのだ。耳疲れしない。単調さは繰り返すことでリズムとなり、ノリとなる。ビートの基本原則を再確認できる。

 

 全体的にはヒップホップっぽさがあるが歌がメロディーとして入っているのもよい。その歌がねっとりしているのだ。その粘着質な声がさっぱりしたバックサウンドと対比になって面白くなっている。

 何より背景に日常を感じる。決して華やかではない。ただただそこにある。恋に燃えているわけでも、強烈な絶望も、玲瓏たる夜でもない。天気で言うなら曇り、体調で言うならば鼻風邪。誰もがある少しだるい、バットではないけど、ローな気分。でも確実に皆に存在する。

 


Wool & The Pants / Bottom of Tokyo

 

 激烈ではない、日々を生きる。少し浮かれて、少し落ちる。低空を過ごす我々に合っている適度な温度がWool & The Pantsの作る音楽である。

車輪が存在するこの都市で

 腹筋ローラーを最近行っている。筋肉は裏切らないとどうやら巷では話題らしい。そういう話とは関係なく、体に付加をかけたいが故にしているだけではあるのだが。これがなかなかに大変である。きついし、気を付けないと腰を痛めてしまう。今日も、正しいフォームをYoutubeで見ながら、車輪を回して肉体を使っている。

 

 

 

 

 

 

 

 インカ帝国は車輪を持たなかったと言われている。もしその頃のケチュア族が私を見たらどう思うのか。回転する器具を手にし、視線の下には小型の映像があるわけだ。少しは驚くと、容易に想像がつく。同時に私もびっくりするだろう。見られながら筋トレを行う経験は初めてであるからだ。

  複数人でその行為を見続ける。その中の若い、好奇心の多い、勇敢と恐れ知らずとが混合する男が近づく。私は少し警戒をする。疲労感がたまりかけているためコンディションの問題があるからだ。いざという時は腕力が必要なのはいつの時代も同じだ。

  どうやら若いその男はスマートフォンではなく、車輪に興味を持っているようだ。シンプル、かつ知らない概念。もし私だとしても複雑な見たことのないものより、単純で見たことのないものの方が興味を惹かれる。自然なことだ。

  そんなことがありつつ運動を続ける。臆していない事のアピールでもあるし、車輪の活用方法を生に見せるのにも十分だからだ。自身の鍛錬に彼らが触れたことのないであろう概念を利用しているのだ、と一種のマウンティングでもある。

  ずっとそれだけを見ている。振動し続ける私を、ではない。その動く支点のローラーである。必死で見ていた。いつの間にか周りの人たちも徐々に近づいていた。私はいないものであった。天井から見ると私を取り囲むように数十人が只々回転の様をみている。祭が半径3メートルで行われているようだ。私は何故かこの状態を冷静に見ていた。そして妙に冴えている頭の中でこのローラーを上げてもいいと考えていた。

 


Pavement - Stereo (Official Video)

 3セットのメニューはここで終わる。Youtubeをここで止める。もう見ることができない都市に思いを馳せる。いい具合に腹筋に疲労がたまっていた。

生きるために生きる

 なんで生きているとかいう2000年も前からの議論がある。そんなこと分かってしまったら苦労しない。気づいちゃったら人として終わってしまうとは思うのだが。

 

 おそらくは多くの人はこれを思ってきた経験があるだろう。私も例外なくその一人である。でも18歳を過ぎてそれをわざわざ声にしてる人はなかなか見られない。恥ずかしいのか、酒を飲んで思考を放棄しているのか、そもそもそんなに暇ではないのか。何で生きてるの?と口には出さなくなった(元々そんなにいなかったわけだが)。分からないがあの頃の強烈な”悩み”は霞んでいった。

 

 そうして年を取る。そしてある時同じ質問を受ける。年を取れば分かるよ、だとか言って昔された解答をする。知ったふりのあの人は未来の自分だ。 

 

 年を取ることで未熟を隠すのが巧くなっていった。隠しているうちに忘れたと思う。

 

 まだそんなこと言ってるの?それより恋人はいるの?飲み行けないとかノリが悪いな。子供は作らないの?どうやって生活するの?男は稼がないとだめだもんね。

 

 生きる事がいつの間にか生活することと同義になる。金を稼いでご飯を食べる。それをしないと呼吸できない。ルールは守ると安心だ。

 

 ある時ホドロフスキーの映画を見た。ホドロフスキー自身の自伝映画である。その中でホドロフスキー自身が過去の自分に向かって激烈なげきを飛ばすシーンがある。人生に意味はない、がとにかく劇的に生きろ。生きろ。だそうだ。

 

 

 

 

 

 笑ってしまった。

 

 それ以来時々は考えるが深く人生の意味は考えなくなった。確かにそうだ。生きるのみである。私は生きる意味を知ってもどうせ生きるっぽい。なら知らなくても生きるしかない。積極的なネガティヴといったところだ。

 

 

 

 それから私は生きてる理由を考えるのは止めた。

 それはあの時軽蔑した大人と同じなんだろうか。昔の自分は答えてくれない。

止まりかけの独楽 Salami Rose Joe Louis

 音楽を聞いて鳥肌が立つ人と立たない人間がいるらしい。

block.fm

 自分は前者であるのだがこの感覚が共有できない人もいると思うと悲しい。そして体験できない人にはこの音楽は鳥肌ものだ、と言っても伝わらないのだ。

  

 ただ今回どちらの人でも大丈夫である。この音楽を聞くと体が震える感覚を覚えるからだ。この感覚は共有できるはずである。

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https://images.app.goo.gl/kZqiR7hpzFY3pSDb8
Salami Rose Joe Louis

 名前の字面でまったくどんな人か分からない。アメリカはサンディエゴ出身のLindsay Olsenのソロプロジェクトである。ステレオラブやJ-Dilla、レゲエにパンクなど様々な音楽を聞いてきたそうだ。(高校時代はパンクバンドを組んでいたそう)今どきは一つのジャンルのみを聞いてきた人の方が珍しいわけではあるのだが。

 

  最新アルバムの"Zdenka 2080"である。2080年の地球(それも荒廃しているという)をモチーフにしているそうだ。というのもsalami-rose-joe-louisが大学時代に宇宙工学を学んでいたそうでそこからモチーフを得ているらしい。曲名も8次元であったり、珪藻と、化学の話や宇宙といったところになってくる。私自身は全くそこらには詳しくない上に英語もできないので言語的にも知識としても何を言っているかさっぱりだ。

 


Salami Rose Joe Louis - 'Octagonal Room' (Official Video)

 にもかかわらずそのテーマを聞く前に曲のみを聞いて揺らぎとも違う、もっとざわついた云わば震えを覚えた。空調の効きはちょうどいいはずだ。

 

 一般、曲を聞くとき意識的にでも無意識的にでも、リズムが真ん中にきて聞いているわけである。ただ、この曲を聞いてその中心が聞き取れなかった。確かにリズムが鳴っているのだが曲全体がそのリズムに乗っていない。そのために震えてしまう。

 宇宙に行ったことはおそらくないだろうがもし無重力を体感できたなら、まず感じるのは浮遊感ではなく、軸が感じられなくなるのが先なのだろうかとさえ思えるほどだ。

 

 ブラックミュージックにあるレイドバックといったリズムのヨレとは違う。例えると独楽である。初めのうちは回るスピードも速く、安定をしている。ドンドンスピードが落ちていくと首が左右へとだんだん振れていく。ちょうどそれなのだ。止まる寸前回転が見えるほどゆっくりながらまだ動く。この音楽には怪しさが裏にある。

 

 

 今日も重力を感じながら音楽を聞く。