なんで生きているとかいう2000年も前からの議論がある。そんなこと分かってしまったら苦労しない。気づいちゃったら人として終わってしまうとは思うのだが。
おそらくは多くの人はこれを思ってきた経験があるだろう。私も例外なくその一人である。でも18歳を過ぎてそれをわざわざ声にしてる人はなかなか見られない。恥ずかしいのか、酒を飲んで思考を放棄しているのか、そもそもそんなに暇ではないのか。何で生きてるの?と口には出さなくなった(元々そんなにいなかったわけだが)。分からないがあの頃の強烈な”悩み”は霞んでいった。
そうして年を取る。そしてある時同じ質問を受ける。年を取れば分かるよ、だとか言って昔された解答をする。知ったふりのあの人は未来の自分だ。
年を取ることで未熟を隠すのが巧くなっていった。隠しているうちに忘れたと思う。
まだそんなこと言ってるの?それより恋人はいるの?飲み行けないとかノリが悪いな。子供は作らないの?どうやって生活するの?男は稼がないとだめだもんね。
生きる事がいつの間にか生活することと同義になる。金を稼いでご飯を食べる。それをしないと呼吸できない。ルールは守ると安心だ。
ある時ホドロフスキーの映画を見た。ホドロフスキー自身の自伝映画である。その中でホドロフスキー自身が過去の自分に向かって激烈なげきを飛ばすシーンがある。人生に意味はない、がとにかく劇的に生きろ。生きろ。だそうだ。
笑ってしまった。
それ以来時々は考えるが深く人生の意味は考えなくなった。確かにそうだ。生きるのみである。私は生きる意味を知ってもどうせ生きるっぽい。なら知らなくても生きるしかない。積極的なネガティヴといったところだ。
それから私は生きてる理由を考えるのは止めた。
それはあの時軽蔑した大人と同じなんだろうか。昔の自分は答えてくれない。