我々は物を買うときに約90%は自由意思に反して購入をしているらしい。つまり「決めさせて」「無意識で」選択しているのだ。私はこの話を聞いて少し寒気を感じたのだ。別に消耗品に対していちいち熟考する必要はないと思っている。ただ、自分が好きなもの(私の場合は音楽)も無意識で選んでいるとなると話が変わってくる。そこに対して恐れを感じたのだ。自分自身を否定するようなそんな気分になるからだ。
そしてそれを恐れたがために対策を考えた結果、好みをできるだけ言語化してみるというところに達した。具体的にいうとビートが硬い、柔らかい、ボーカルがあるない、や音が丸いか角ばっているといったイメージの枠からは過ぎないがそういった無数のものを言語化してみた。
- ビートが硬い、柔い
- 音色が丸いか角ばっている
- リズムが複雑か単純か
- ボーカルがあるのかないのか
- 残響(リバーブ)がどれくらいかかっているか
- 曲調が激しいか穏やかか
- メロディがコッテリかアッサリか
- 低音の質感
- ビートが硬い、柔い etc.,etc.
様々な要素がある”音楽”なのだが私はそのなかでビートが硬いか柔めで判断することを一つにしている。
例として、ビートが硬いか柔めとは何なのかその説明をしていきたいと思う。
これはchouchouという二人組のアーティストである。聞くとビート柔めという意味がなんとなく分かると思う。漂うピアノに、ウィスパーなボーカル、限りなく透明に近い、不純なものがないガラス細工のようである。
Boards of Canada - Nothing is Real
こちらはboards of Canadaというユニットで、カナダとあるがスコットランド出身のアーティストである。こちらはホアホアしたシンセに曲調が一定に進む感じ、さらに、"nothing is real"というタイトル。どうだろう。この二つの揺らぎとでも言うのだろうか、曖昧みの心地よさを感じることができる。そしてこの曖昧な感覚は主にビートが柔い、と感じたがためにこのような表現をしてみた。
では、私が思うビートが硬いとは、なんなのか。
Kyoka Boiler Room Tokyo Live Set
こちらはkyokaという女性ソロアーティスト。とてもメタリックな音楽ではないだろうか。低音で低音を強調するような、そんなイメージを持った。先ほどのような曖昧さ、というようなものはなく、一つ一つの音がリズムをしっかりと刻みより洗練され、区切られた美しみを感じる。
これは先ほども例に挙げたchouchouの私が表現するところのビート固めの曲である。 輪郭がくっきりしていてはっきりとした印象を持つ。これら二つの曲はすっきりとしていてビートが硬い
このように私はビートが柔いか、硬いかというところを一つの判断材料にしている。
このようにすることでより音楽を分類して好みを判断している。
ただ、このような言語化をする必要がなくなるだろう。なぜなら今はある程度自分の好きな曲を聞いているだけでAIがおすすめでその人の好みを判断しその人に合ったものを提供してくれるようになっているからだ。それはとても便利で確実で簡単なことだ。実際に私もその機能を使って新しい音楽を探っている。
でもそれでよいのか?と私は思ってしまったのだ。自分の好きなものをある程度言語化できず与えられるものをよいと感じていることは心地よくそして正しいのだと思う。でもそれは日常の消耗品を買うことと変わらない、音楽を聴くのではなく消費することと同義になるのではないかと。
私は抗ってみたいのだ。それはささやかで意味のなく、そして不確定なところに近づいていくのだろう。でもそこに大げさかもしれないが自分の意志というものが生まれ、育むことになると思うからだ。
人は選択することが得意ではない。少なくとも私は選択が苦でしょうがない。だけど自分の好きなものくらいは意志をもって選び取りたいと私は思うからだ。
私は音楽が好きなためにビートが硬いといった例を持ち出して話をした。自分の例を出しただけである。これは何にでも当てはまるのだと思う。タイトルの○○には人それぞれの好きなものを入れてほしい。
そして自分の好きなものを掘り下げられる人間に私は魅力があると信じている。そういう人に私はなりたいのだ。