本日、話題の映画「ジョーカー」を見た。この映画に影響を与えたという「キングオブコメディ」や「タクシードライバー」を見るほどに楽しみであった。その感想を述べたい(見た前提で話を進めていきたいのでネタバレとかは気にしない)。
Source: Warner Bros.
悲劇ではなく喜劇
しがないコメディアンの男がバットマンシリーズで有名なジョーカーにどのようななったのか、という内容のお話である。
見る前に先に見た人の感想が流れてくるのだが、大体が悲しい話といった具合であった。ただ、私はただ悲劇ではないと感じた。むしろ喜劇ではないのか。
というのも映画の中でアーサーはマーリー(ロバートデニーロの役)の番組の中で悲劇か喜劇というものは主観でしかないと言っていた。ここにすべてが詰まっていると感じる。
最初の部分、つまりまだ彼がアーサーであったときには重々しい部分や音楽が目についた。彼自身も精神病に悩まされているし、幻覚を見たりだとか明らかに”負”である。
しかし、最後の場面で捕まったジョーカーと看守との滑稽な追いかけっこ、軽快な音楽と言い明らかに”正”である。ここではアーサーと彼の子ことは呼べない。完全なるジョーカーになるそのことによってこの凄まじい人生が喜劇に変化するのだ。いや、むしろそうならざるを得なかったのだ。
つまるところこの映画はジョーカー自身にとっては喜劇であり、我々にはどう取っても悲劇にしか思えない。人間には主観という眼鏡を通じてしか外界を感じとるすべがないからだ。
タイトルがジョーカーであることも喜劇であることの表れだろう(もちろんジョーカーとタイトルをしないとDC作品としておかしいということは除いても)。
狂気という安直さ
この作品を語るうえで狂気という言葉は切っては話せない。他のあらすじ紹介は狂気の悪役ジョーカーといった言われ方をされている。
それは少し安易すぎると思う。
この作品では大きく3種類の狂気があった。もちろん我々一般人から見てジョーカーというのは極悪非道で疑う余地もなきイカレかもしれない。ただ、ゴッサムの貧困層にとってはそうではない。彼らにとってはヒーローであった。むしろマーリー達が狂気に満ちているといった具合である。もちろん逆もそうである。
そしてそんな構図を作るシステム、つまるところ社会そのものに狂気性がある。ちなみに社会性というものは人間しか持たないという。人間自体が狂っているともいえる。
ただ安易にジョーカーが狂気とは言えない。それはゴッサムに住む住人とおなじであり狂いを持っていると言えるだろう。
表の反対が裏なのはコインだけなのだ。
すべては虚構、幻
最後にこの作品はジョーカーの空想でしかないという意見がある。無論そのような描写もあるし(途中に親しくしてきた女性とは一度だけしか話したことがなかったであるとか、最後の場面アーサーがカウンセラーと話をしている所は明らかに時系列が前であるためにすべてはジョーカーのジョーク、喜劇であるということ)多分それは間違っていない。
ただ今まで話をしてきた狂気が孕む部分であったりだとか、人々の主観はどこにあるのか、という部分にメッセージを私は感じた。
もっと言うならば映画そのもの自身が虚構であるのだ。
多分こんな考えもジョーカーの手の上なのだろう。